コレクション:旗本中根家旧蔵史料
常陸国茨城郡大泉村(現茨城県桜川市大泉)などを知行していた旗本中根家で所蔵していた古文書。目録の表題件数では、宝暦5年(1755)から大正14年(1925)まで108件の文書が現存している。平成25年(2013)に、中根悦子氏より茨城大学図書館に寄贈された。
近世文書が約7割を占め、なかでもまとまっているのは中根平十郎宛の登城・出頭命令の書状である。明治年間の文書には、中根清八郎が茨城県拡充師範学校(のち茨城師範学校、茨城大学の前進)を卒業し、小学校教師を務めたことに関する文書(辞令など)が見られる。
中根家は代々平十郎を名乗った旗本で、その祖先である中根正勝は、徳川家家臣として三方ヶ原の戦いにも参戦、天正18年(1590)相模国に1,000石を拝領し、子正時は関ヶ原の戦いに参戦した。寛永期の中根正盛は大目付や御側御用(のちの側衆)を務め、知行5,000石を賜っている。正盛は、3代将軍徳川家光の側近として活躍し、将軍と幕閣との取次、諸大名の監察、評定所出座などの重要な職務を務めた。その後、正盛は次男正章に1,000石を分知し,長男正致その子正冬は4,000石を知行した。地方直しの際,元禄元(1688)年12月に武蔵国橘樹郡・荏原郡の知行地に替わり、常陸国茨城郡大泉村・堤上村・本郷村、真壁郡下高田村を拝領した。同10年(1697)12月には上総国武射郡の知行地に替わり、常陸国茨城郡吉原村・上押辺村を拝領した。寛延4(1751)年10月に知行地の一部が召し上げられ、茨城郡大泉村ほか2か村2,000石となり、幕末を迎える。正芳は徳川慶喜が江戸から水戸へ下る際に臣従した。その子清八郎は旧水戸城中御殿に置かれた茨城拡充師範学校を卒業,大泉村の小学校教師となった。なお、中根正盛の書状は早稲田大学図書館などに所蔵されている。